COMPANY

HISTORY

創業

STORY01

初代伊藤忠兵衛
麻布類の卸売業として大阪に創業
5代目伊藤長兵衛の次男として生まれた初代伊藤忠兵衛は、15歳になると麻布(まふ)を扱う「持ち下り」という行商を始めた。堺や紀州を拠点としていたが、持ち下りは次第に販路を広げ、九州にまで進出することとなる。当時の日本はアメリカをはじめとした5ヵ国と修好通商条約を結び、自由貿易時代が始まった。忠兵衛は商いに無限の可能性を確信し、「外国人、軍艦、商館を一瞥し、奇異の感を懐き、驚異の眼を開く」が如く頭角を現すようになる。
「紅忠」創立

STORY02

大阪・東区本町2丁目、中橋筋東に
呉服太物商「紅忠」を開店
1872年(明治5年)初代忠兵衛は大阪の東区本町2丁目で呉服太物商「紅忠(べんちゅう)」を開店するに至った。初代忠兵衛は、紅忠開店と同時に「店法」を定め、店主と従業員の相互信頼をもとに合理的な経営を行うための施策を打ち出した。具体的には、「経営の民主化」ともいえる会議制度の施行、利益三分主義の実践、洋式簿記の採用、現金取引の実行など、人を信じ、有能な者を思い切って登用する人材育成は、初代伊藤忠兵衛の生涯にわたる重要な事業経営精神となった。
太平洋戦争から戦後へ

STORY03

「三興株式会社」から「大建産業」
そして戦後へ
太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)「丸紅商店」と「伊藤忠商事」、「岸本商店」が合併して「三興」が発足し、さらに1944年(昭和19年)三興は「大同貿易」、「呉羽紡績」と合併し「大建産業」と名前を変えた。
1945年(昭和20年)8月、日本はポツダム宣言を受託し、太平洋戦争は日本の無条件降伏、敗戦によって幕を閉じた。終戦とともに日本を占領した連合国軍は、日本の軍事力の破壊と民主的な政治経済制度の樹立という方針のもとに、財閥解体、制限会社、持ち株会社の指定、過度経済力集中排除法の制定などの施策を次々に実施していった。大建産業も制限会社の指定は免れず、1946年(昭和21年)、子会社46社とともに持ち株会社整理委員会の厳重な監督下におかれることとなった。
「呉羽紡績」「伊藤忠商事」「丸紅」
「尼崎製釘所」の発足

STORY04

企業再建整備計画による
4つの会社の発足
1947年(昭和22年)日本は困窮の極みであり、産業は疲弊し、日本は物不足とインフレに悩まされていた。その頃、大建産業は製造部門と商事部門の分離を中心とする、企業再建整備計画が決定し、「呉羽紡績」、「伊藤忠商事」、「丸紅」、「尼崎製釘所」の4つの会社に分割され新発足することとなった。1949年(昭和24年)12月1日、それまで連合国軍の管理下にあった輸出が民間企業に委ねられ、翌年1月には輸入も自由に行えるようになった。
伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社発足

STORY05

大手総合商社初の部門統合により
伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社が誕生
伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社(Marubeni-Itochu Steel Inc./MISI)は、2001年10月1日、丸紅の鉄鋼製品部門と伊藤忠商事の鉄鋼部門が分離統合し誕生した「鉄鋼総合商社」であり、総合商社としてはライバル関係にある2社が、大手総合商社として初の事業統合に踏みきり、総合商社の総合力を維持しつつ両社の事業基盤、人材、ネットワークなどの豊富な経営資源を統合することによって、それまでには成し得なかった鉄鋼総合商社ならではの多彩な機能・サービスを全世界の鉄鋼マーケットへ提供することが可能となった。
設立20周年へ向けて

STORY06

「ニュービジネスモデルへの挑戦」
そして「ロマンへの挑戦」
伊藤忠商事も丸紅も幕末に近江で生まれた伊藤忠兵衛を創業者とする会社で、商いに対する理念には共通するものがある。その近江商人の原点は「三方よし」、すなわち「売手によし、買手によし、世間によし」という思想である。伊藤忠丸紅鉄鋼の企業理念はまさにこの考えを実現することであり、メーカー、需要家、そして企業としての社会的責任、その3つの新しい関係を創造していくことに他ならない。両社の持つ総合力をバックボーンに、“2つ”の総合商社の一部門を担うMISIだからこそ成し得る、広範囲かつ専門性の高いサービスの提供を行い、「新たな価値の創造」に挑戦し続けている。