Chapter 2
吉川 圭
Episode 1
人を磨く国内営業
鋼材第二本部
本部長代行 兼 特板部 部長
1991年入社

部署は取材時のものです

吉川 圭
Kei Yoshikawa
井の中の蛙
「商売なんて簡単だ」
あの頃、そう考えていたのは紛れもない事実だった。
下町で生まれ、父親をはじめ親類縁者のほとんどが商売人という環境の中で育った吉川は大学時代、アメリカンフットボールに打ち込んでいた。その合間で東京・大塚にあった叔父の倉庫で服飾や貴金属を扱う、いわゆる古着屋を始める。
この古着屋のビジネスモデルは、友人や知り合いから不用品をタダでもらって売るという単純なもの。提供者には、儲かったら焼き肉をご馳走したり、温泉に行ったりして返すシステムだ。叔父の倉庫なので家賃、電話代、光熱費は不要。元手は一切かからない。1円で売っても1円の利益が出るという商売だった。ところが、これが思いのほか儲かった。そこで大学4年時には海外の女性下着ブランドの日本国内販売権を買ったり、メキシコに宝飾品を買いつけに行ったり。
「この世界で生きていこう」
そう考えていたため、吉川は就職活動を一切していなかった。だが、それまですべて事後承諾だった父親に、ふと「俺は将来どうしたらいいのかな」と尋ねてみた。商売人の先輩としての意見が聞きたかったのだ。すると父は息子にこう答えた。
「おまえは井の中の蛙だ。このまま続けたらつまらない人間になるぞ」
「そうか…」
薄々そんな予感のあった吉川は、遅ればせながら翌日から就活を始めた。
「商売をやるならやはり商社だ」
そう考えた吉川は自分が得意とする服飾などの繊維に強い総合商社を受け、その中でも最強の総合商社から内定を得ることに成功する。
24時間戦う時代
しかし、時はバブル絶頂期。「働き方改革」という言葉がこの世に生まれる前の世界だ。
鉄鋼本部に配属された吉川には、1年目から大量の仕事が割り当てられ、自らの責任でこなすことが求められた。
早朝から深夜まで仕事をこなし、さらに先輩や上司に誘われて飲みに行く。ほとんど睡眠を取らず翌朝からまた仕事を始めるためミスを連発。その処理のためさらに仕事が増えるといった負のスパイラルに陥る。
「もうだめだ…」
すっかり青白くなり精気を失くした吉川は、商社パーソンとしての自らの限界を感じた。そして入社4年目の4月。金曜日の終業後に上司のもとを訪ねた。「辞めさせてください」と伝えるためだ。ところが、席につくなり上司は言った。
「おまえが話す前に俺から話していいか」
「あ、はい…」
「おまえ、名古屋に行く気はあるか? 名古屋支社の支社長がおまえをよく知っていて、名古屋に来てほしいというオファーがあった。支社長は鉄鋼出身の先輩だ。鉄鋼の仕事に加えて愛知万博に向けて博覧会協会でいろいろ提案してほしいそうだ」
名古屋支社の支社長は新人時代に数回会った程度だったが、入社早々の溌剌としていた自分のことをずっと気にかけていてくれたのだ。
「ラストチャンスに賭けてみよう」
この瞬間、吉川の人生は大きく動き出すことになった。
商社≠海外
「これからはすべて君が考え、君がマネージしてくれ。責任はぼくが持つから」
名古屋支社の上司の言葉に吉川は大きな安堵感を覚えた。名古屋では1から10まで自分のペースで進めることができる。
「こんな環境を与えてくれた上司に迷惑をかけるわけにはいかない」
配属された金属部鉄鋼第2課で扱う鋼材の拡販営業はもちろんのこと、吉川は商社の総合力をフルに使い、視野に入るすべてをビジネスフィールドと捉え、思うがまま自由自在にビジネスを展開した。
たとえば取引先の鉄鋼メーカーのユニフォームが古びていたら「もうそろそろ新調したらどうですか」と繊維部の人間を紹介する。見学した倉庫が朽ち始めていたら「危ないから見に行って」と建設部に伝える。米が大凶作となったときには、「ごはんがないと大変でしょう」と取引先の工場の社員食堂と食料部の人間をつなぎタイ米を納入したこともあった。
「商社って、なんておもしろい世界だ」
単に物を売って金を稼ぐというだけでなく、吉川は「相手のためになる」というビジネスの根源的な喜びを体感していた。
とはいえ、もちろん順調な仕事ばかりではなかった。
愛知万博関連事業の一環として、中部国際空港の埋め立て工事に参画したことがあった。海外から埋め立て用の砂を輸入することになったのだが、本来なら海洋埋め立て工事には自重の重い山砂が必要とされる。ところが吉川は貝殻のたくさん混じった台湾産の安価な海砂を購入、建設会社に納入してしまう。海砂は埋め立て地に投入するや、わっとばかりに浮き上がり、まったく沈んでいかない。当然、その処理で吉川は大きな損失も出した。だが、そんなときも名古屋の上司はこう言った。
「いい勉強したな」
仕事が人を磨くとは商社業界でよく口にされる言葉だ。吉川の場合、名古屋では自分で仕事を作り、良くも悪くもその仕事によって自分自身が商社パーソンとして磨かれた。この環境が国内営業の良さだ。「商社=海外」と誰しも考える。しかし、それは違う。実は国内営業こそが商社パーソンとしての根幹を育てる格好のステージだというのが吉川の持論だ。
名古屋への異動はまさに吉川の人生のターニングポイントとなった。そのきっかけを作ってくれた当時の名古屋支社長と吉川は、四半世紀経ったいまも年に1度の会食を続けている。