Chapter 2
吉川 圭
Episode 2
つくる側の論理
鋼材第二本部
本部長代行 兼 特板部 部長
1991年入社

部署は取材時のものです

吉川 圭
Kei Yoshikawa
勉強している暇なんかない
名古屋屋支社勤務の後、吉川は大阪支社へ異動し、その後MISIへ転籍。その後東京本社、シンガポールへの長期出張などの社歴を積み、2010年に東京の鋼管部第一課長となる。その吉川が当時の社長と副社長に呼び出されたのは、2015年3月のことだった。
「PSPCに行ってもらうことにした」
「出張ですか?」
「いや、社長で、だ」
PSPC(Premium Steel Processing Co.Ltd)とは、バンコクにある鋼材の加工・販売やパイプの製造・販売を行うメーカーだ。従業員300人ほどの会社で、従来はMISIから50代後半の社員が赴任していた。しかし、当時の業績は厳しく、テコ入れが必要だった。
「ぼくには無理です」
吉川は断った。
「君の新しいアイディアで会社を変えてきてくれ」
社長は押した。
ここまで言われては受けるしかない。実際、社長というポジションには魅力があった。現地で日本人はただ一人。誰に相談する必要もなく、自分ですべてを決めることができる。
「ありがとうございます。しっかり勉強してきます」
頭を下げる吉川に副社長はこう放った。
「お前に勉強している暇なんかない。即、会社を黒字化して戻ってこい!」
商社パーソンだった吉川にメーカー勤務の経験はない。社長業ももちろん初めてだ。ゼロからのスタート。だが、吉川はそれが自分の武器になると感じていた。その業界をよく知る者は往々にしてその業界のしがらみに囚われ、改革することは難しい。素人が経営することで、従来の常識を覆すことができる。素人といっても国内外のビジネス現場でさまざまな経験を積んできた素人だ。単なる素人ではない。
そしてもう1つ。吉川には名古屋支社時代に培った自分にしかない強みがあった。
ものつくりの誇りと魂
話は、九死に一生を得て名古屋支社に異動した1995年にさかのぼる。
「自分で考えてマネージしろ」と言われた吉川は、実はビジネスだけでなく、自らの興味に従い、鋼管(※5)の精密加工を行う事業会社の現場に早朝から午後2時まで、1年間通い詰めた経験がある。その事業会社は無借金経営で年間に何億もの利益を出し、剰余金も貯まり、配当も100%以上が当たり前という優良企業だった。
「儲かるからくりを知りたいんです。引抜鋼管のイロハを勉強させてください」
吉川は伊藤忠商事OBの社長に頼み込んで現場に通う許可をもらった。労務管理の厳しい現在では考えられないことだ。
「東京から来たお坊ちゃんに何がわかる」
当初は現場の熟練工たちからもからかわれた。だが、ひと月も経つとそんな言葉は聞かれなくなった。
吉川は毎朝6時に工場に行き、炉のボタンを押す。すると社員が出社してくる7時ぐらいに炉が温まり、そこから多彩な引抜き加工(※6)が始まる。吉川はその精密な加工工程をひとつひとつ1年をかけてすべてマスターした。もっとも彼はただ技術を身につけにやってきた研修生とは違う。現場の人たちとすすんで酒を酌み交わし、同じ釜の飯を食った。それゆえ、バブル崩壊後、その優良な事業会社が他商社に売り渡されると聞いた際、吉川はまっさきに駆けつけた。罵られることを覚悟で向かったが吉川にかけられた言葉は全く違った。
「よく来てくれたな…。ありがとう」
吉川は社長をはじめみんなから声をかけられ、ともに涙した。
M&Aは仕方のないことかもしれない。吉川に抗うことはできない流れだ。ただ、吉川はそのとき、メーカーの技術者たちの仕事に対する誇りや魂を受け継ぐとともに、技術者一人ひとりを愛する心だけはしっかりと胸に刻みつけた。
こうした痛みに裏打ちされた思いと現場を知る強みがあるからこそ、吉川はバンコクの鋼材加工メーカーの社長職を引き受けたのだった。
(※5)鋼管:筒状に成形された圧延鋼材。断面形状が円形、楕円形、角形などがあり、用途も自動車用部品、油井管やガス管から土木・建築まで様々である。
(※6)引抜き加工:鋼管を外径はダイス、内径はプラグを用い伸管機で引っ張り、所定の寸法及び表面性状に仕上げる方法。
今度は「ぼくが責任を持つ」
そんな吉川でも赴任1年目は会社の経営も製造も安全も社員の幸せも、そのすべてを自分が一人で背負い、毎日遅くまで工場で悩む日々が続いた。
「これは無理だ」
そう感じた吉川は名古屋支社時代の上司の言葉を思い出した。
「ぼくが責任を持つから自由にやれ」
それはバンコクの工場でも同じだ。みんなを信じて任せることで、あのときの自分のように、みんなも成長する。
「今度は『ぼくが責任を持つ』という番だ」
腹を括った吉川が行ったのは、仕事をする意味や意義をスタッフに伝えることだった。全員がそれを理解すれば目的意識が明確になり、進むべき方向は一つになる。吉川は300人いるスタッフを30人ずつに分け、全員が納得できるまで話をした。
「いま作っているパイプはなぜ安全なものとして作らないといけないの?」
「君が乗っているバイクのハンドルにこのパイプは使われているからだよ。君が乗っている車にもPSPCのパイプがたくさん使われているんだよ」
そして、標語も作った。最初の標語は「3S」。
3つのSは、シンプル(Simple)、ストラテジー(Strategy)、スマイル(Smile)。シンプル(単純)に仕事を進めるためにはストラテジー(戦略)が大事。社員一人ひとりが自分の仕事に対する戦略を立て、達成できたらみんなで「うまくいったね!」とスマイル(笑顔になる)。
この吉川の施策により、時間はかかったが、社員みんなの意識の高まりと仕事のベクトルが一致し始めた。それは名古屋の精密加工メーカーで感じた一体感と同じものだった。
また、技術の向上も忘れてなかった。吉川は日本の金属メーカーで海外勤務の経験もある熟練工を招き、PSPCの技術者教育を一手に任せることにした。
こうしてすべてが少しずつ整っていき、PSPCは吉川が赴任した3年で海外事業会社の中でも大きな収益を誇る会社に成長した。
そして2018年4月、吉川は予定より早く、東京に呼び戻された。
「勉強している暇なんかない」と言われた吉川は、この駐在で名古屋時代に吸収した多くのことを実践し、多くのことを学んだ。商社パーソンがすぐに求めてしまう値引きをメーカー側が安易に受け付けない論理も身をもって知った。技術、安全、継続、そして愛情…。ものつくりにはそれだけのコストがかかるということをメーカー側は値引きに応じないことで主張しなければならないのだ。
吉川が帰国する日、バンコクの空港には多くの社員が有給休暇をとって駆けつけた。それは初めての社長業という吉川の商社パーソンとしてのターニングポイントが、彼らの人生のターニングポイントとして引き継がれたことの証だった。