Episode 1
「インドに行きたい」
からの転換
自動車鋼材第二部
自動車鋼材第四課課長
2008年キャリア採用入社
部署は取材時のものです
三宅 沙綾
Saya Miyake
- 人生を変えた広告
- 強い想いは、思わぬ転機を招く。
- 三宅は2004年、あるエンジニアリング会社に新卒で入社した。主に携わったのは、自動車製造設備に関する営業だった。
- 行動力と粘り強い性格が評価され、早いうちから多くの仕事を任された。海外生産が多くを占める自動車メーカーが顧客のため、海外へ出張する機会も多く、顧客や関係先との商談、契約金額や商務条件の交渉などに立ち会った。
- 特に三宅の心を強く揺さぶった国がインドだ。当時は日系自動車メーカーがインドでの生産を増強し始めた時期で、何度も訪れる機会があった。そこには日本とは異質の価値観、文化があり、大いに魅了された。
-
大好きな国で、もっと腰を据えて仕事をしたい。そう強く思い、上司に直接かけ合った。
「インドに駐在したいです、もっと最前線で勝負していきたいんです」
しかし、予想だにしない答えが返る。
「女性だから難しいよ」
- 正直心の底から落胆した。生活環境も文化も全く異なる環境故に、上司が女性である自分を心配してくれたのはわかっていた。しかし、男性ではないというだけで駐在の希望が叶わない現実は、インドでの活躍を強く願う三宅をやるせない気持ちにさせた。
-
そんなとき、新聞を読んでいると「伊藤忠丸紅鉄鋼 中途採用募集」という大きな広告が目に留まった。伊藤忠丸紅鉄鋼(以下、MISI)は知っている会社だった。この会社のインド駐在員とは知り合いで、風通しの良い社風であることも聞いていた。
「ここなら、インドに行けるかもしれない」
-
そう直感した三宅は、応募書類をすぐさま書き上げ中途採用に応募した。面接試験では、試験官に情熱をもって強く想いを語った。
「インドに行きたいです。インドで大きな仕事がしたいんです」
- その前のめりの情熱と、前職での実績が認められ、2008年、MISIに中途採用された。配属されたのは、自動車産業を主な顧客とする鋼材第三本部(※1)だった。
- (※1)鋼材第三本部:当時の部署名。現在は自動車鋼材本部。現在ある鋼材第三本部とは異なる。
- すべての相手に敬意を
- 「短期間で一人前になりたいので、そのつもりで育ててほしい」
-
採用後の面談でそう啖呵を切った三宅は、短期間で複数の部署を渡り歩くことになる。
最初の配属先は、鋼材第三本部 開発部(※2)。しかし翌年、すぐに東京スチールセンター(※3)への出向の辞令が下りた。
-
本部長はこう笑って、三宅を送り出した。
「商社にいては経験できないことを、流通加工の現場で学んで来い」
「はい!必死に頑張ります!」
- と、元気に返事をしたものの、入社してから短期間で、かつ営業としての経験を経ないままでのコイルセンター(※4)への異動は極めて異例。幾ばくかの不安がよぎりつつの出向だった。
- ここでの仕事は、確かに商社では経験できないことばかりだった。トラックの配車手配や現場への加工指示といった事務仕事に加え、小さくカットされた切板を数千枚単位で運び、選り分けるなどの作業にも自ら汗水流してひたむきに励んだ。
-
その繰り返しの中で、三宅にある気づきが生まれた。そして同時にある強い覚悟も芽生えた。
「わたしは、すべての相手に敬意を持った商社パーソンになりたい」
加工の難易度や、必要なリードタイムなどが全く把握できていないままに営業担当から加工依頼の問い合わせが来るケースがあり、そんなメールに限って、「この加工依頼はできて当たり前」という高圧的な雰囲気を漂わせた文面であることが多かった。
- ただ、コイルから厚中板・薄板への加工、成形、在庫管理、納入先への搬入。こうした工程は、現場で働く人々の大変な苦労の末に成り立っている。しかし、オフィスで仕事をしていると、そうした苦労の存在を忘れ、滞りのないことが当然だと勘違いしてしまうこともある。加工現場で実際に働いた自分だからこその気付きだ。
- だからこそ自分は、コイルセンターはもちろん、商社パーソンとして取引するすべての顧客やサプライヤーのことを深く知り、常に相手への敬意を忘れずに仕事がしたい。そう強く思えた。
- その後、東京スチールセンターへの出向も1年少々で終わりを告げた。この学びは、三宅にとって何物にも代えがたい貴重な財産となった。
-
(※2)鋼材第三本部 開発部:当時の部署名。現在の自動車鋼材本部 総括室。
(※3)東京スチールセンター:伊藤忠丸紅鉄鋼が100%出資するコイルセンター。薄板の加工・販売を行う。
(※4)コイルセンター:鉄鋼メーカーで製造されたコイル(鋼板を薄く延ばしてトイレットペーパー状に巻いたもの)に切断加工等を行う鉄鋼流通加工業者。
- 恋焦がれたのは国でなくプロセス
-
2010年、三宅は自動車鋼材第一部 自動車鋼材4課に異動となった。入社後、初の営業担当者としての配属だ。
しかし、この部署は外資系の自動車メーカーおよび自動車部品メーカーを専門的に扱うために、新たに設立されたばかり。三宅はMISIでの営業経験がないまま、新規部署の立ち上げスタッフとしての重責を担うこととなった。
-
仕事は、想像以上の過酷さだった。新たな部署のため、連綿と引き継がれてきたレガシーが存在せず、配属された一人ひとりが積み重ねてきたノウハウを基に、仕事のやり方を一から構築しなければならない。
「自分には、一体何ができるんだろう…」
社歴が浅く、営業経験もない三宅にはまだノウハウが蓄積されていなかった。早朝から夜遅くまで、不安や悩みを持つ時間すらないくらい、仕事漬けの毎日が続いた。
そんな日々のなかで、三宅の今後の人生を左右する発見が生まれる。担当業務で、タイと豪州へ海外出張に赴く機会が多かったが、その際に、現地スタッフや顧客と話し合い、協力して仕事を進めること、それ自体がとても楽しく思えた。それは前職でインドに出張していたときと同じ、大きなやりがいと充実感に満ち溢れていた。
そして、気づいた。
「インドだけにこだわる必要はないんだ。どの国であっても私が本質的に大切にしたいことは同じだ」
- つまり、自分が何より魅了されたのは、「さまざまな価値観・文化を持った人々と理解し合い、意思を一つにして、ともにゴールを目ざしていく過程」そのものだった。インドは大好きな国だが、それ以上にそのプロセス自体に恋焦がれていたと、初めてわかった。
-
その日以降、不思議と肩が軽くなった。
「インドに行くために成果を上げないと……」という思いに縛られていた自分が解放された。
「私ならできる。」
良い流れになってきた。そう感じつつあった2012年の春、三宅はある辞令を受け取る。異動先はMISIのバンコク支店。初の海外への駐在だった。